時限爆弾。

意味をもつ言葉が苦手になってきました

運がよいこと。

 

 

こんばんは。文章を改行しなさすぎて先生に怒られた私です。

行をしないのには理由があって、文章ってひと繋ぎで構成されてると思ってて、なるべき息継ぎしたくないんだよね。私利私欲の文章じゃいいけど、まあ確かに公的な文章では良くないかもしれなかったな。はい、反省。反省したから偉い。ヨシ。

 

閑話休題、タイトルについて触れましょう。これは本当に驚愕だったんだけど、幸せの意味って運がいいことらしい。びっくりした。人生で初めて「幸せ」って単語の意味を調べたけど、運がいいことなんだ。運が良ければ幸せって、なんともまあ皮肉な。じゃあ私は間違いなく幸せなんだよな。運がいい人生だから。運だけで生きてきたから。どうりで幸せだと思う時間が多い。面白いね。ご飯をたくさん食べれることも、たくさん寝れることも、ゲームを楽しくプレイできることも、そのどれもが運がいいことなんだと思うと感慨深い。運なんて本当に生まれつきなのに、それが備わってるか備わってないかで幸せが決められてしまうなんて。じゃあ私は死ぬまで幸せなんだ。だって運がいいから。なんて、自信満々に言ってるけど。運の良し悪しなんて、プラマイ0なんですよ。これは私が昔から盲信してる理論なんですけど。人間が一生を生きていく間に起こる出来事、幸せで楽しいプラスの出来事と辛く悲しいマイナスの出来事、このどれもは、どのタイミングでどれくらいの重さでどれくらいの頻度で起ころうが、結局死ぬときにはみんなプラマイゼロになると思ってて。だって不平等でしょ、不幸なだけの人がいたら。幸せなだけの人がいたら。きっと神様は平等だって信じてて、それは馬鹿みたいだけど、そう信じてないとやっていけないし。不平等だって思ったところで、何になるんだろうって思うし、そんなネガティブなことを考えてるうちに今起きてる小さなプラスを逃しちゃうかもしれないし。そうやって前を向いて歩いてきたし、これからも前を向いて歩いていこうと思ってる。んだけどなあ。

 

ああ、芥川の「歯車」って作品を知ってますか。遺作と言われている作品で、最後の一文にきっとあなたも震えるよ。で、その作中にね、主人公が「光のない暗だってある」っていうシーンがあって。よく光があるから暗闇があるって言うでしょ、影があるからこそ光がより一層輝くとも言われるし、この二つって常に対称で。でも光がない闇ってなんだろうって考えて、目を瞑って、何一つ光がない真っ黒の世界が見えた。黒色の画用紙を初めて見た時みたいな感覚。その主人公(まあきっと芥川)は、そんな世界にいたんだ、ずっと。相手に何回も言われるんです、光を、神を、信じてみたらって。でも、悪魔なら信じれるのだけど、って。悪魔を信じる気持ちと神を信じる気持ちって何が違うんだろうね。信じるの対義語は信じないだと思ってるんだけど、神以外のものを信じることが神を信じることの対義語なのかな。じゃあ人を信じることの対義語は?信じないことが対義語だと思ってたけど、芥川はなんて言うんだろうね。あなたはなんて言う?

 

好きな人がさ、見てる景色って無条件で綺麗でさ。今まで気にもしなかった景色が途端に輝いて見えて、ああこの景色を見れてよかった、って心から思うんだけど。それって隣に好きな人がいるから綺麗に見える、なんて言ったりもするけど、存外隣に好きな人がいなくてもしばらくは余韻で綺麗に見えてさ。一度綺麗だなって思ったものって、簡単に変わらなくて。いつまでも綺麗で困る、本当に。一人で見ても綺麗だから困る。でも、綺麗なのに、綺麗だねって言える相手がいなくて。綺麗に彩った人がいなくなった瞬間に、世界がモノクロになればいいのにって人生で何回願ったか。なんて、私はきっと言える権利もなくてさ。傷つきたくないから先に傷つけるってそれは防衛反応の一種だと思うんだけど、でもちょっと過剰防衛な気がして。だからせめて、傷つく前に逃げようとしちゃうのがきっと負け犬で。その負け犬が私で。傷つくのが怖いのなんてみんな同じだろうけど、傷を作ってまで頑張らないといけない時っていうのがあって、私はそれすらも逃げてきてしまったんだなって思うよ。で、軽い傷でたくさん慣らしておけばいいのに、それすらも億劫だった私は下手に歳を重ねちゃって、もう小さな傷ですら怖くて。馬鹿だなあって思うけど、過去は死んでも後悔しないって決めてるから、結局この現状を受け入れるしかいなくて。傷つかないって良いことなのに。傷だらけでも前へ進む人と、傷をつけずにその場に留まる人と、どっちが良いんだろうね。わからないね。でも私は、前に進みたいときに進めなかったし、進めてないよ。この現実が全てなんだろうね。

 

嘘と変化について、不意に考えちゃってさ。残酷にも人の気持ちは変わるんだけど、変わるってだけで済ませるのめちゃくちゃむかつく。妹とこれについてディベートしたんだけど、妹はさ、故意じゃないから嘘ではないって言うんだよ。その言った時は嘘じゃなくて、本当のことを言ったから、嘘じゃないって。ただ変わっただけだって。わかるけどさ。一点一点で言うこと全部事実で、嘘じゃないなら、それで許されるなら、言いたい放題じゃん。その時思ったこと言えばいいって、そんな勝手なこと許されるの悲しいじゃん。大好きな少女漫画、私はその少女漫画の主題を勝手に「人の心は移ろいゆく」だとしてるんだけどさ。ヒロインが好きな男の子には彼女がいて、ヒロインは一度失恋するんだけど、その男の子は結局ヒロインに惹かれて、彼女と別れて(まあフラれたという形ではあるんだけど)最後はヒロインとくっつくんだけどさ。これはもちろんハッピーエンドなんだけど。でも、私は同時にいつもひしひしと恐ろしさを感じるわけで。人の気持ち、完全にわからないってだけで怖いのに、操作できないし、さらには変わるって本当に怖い。確かに好きだった、とか、好きという気持ちに嘘はない、とか簡単に言うけど。そんなのは当たり前のことでさ、今この瞬間その人以外のことを好きになったその気持ちは、芽生えたこと自体は、嘘じゃないの?なんで?ちょっと前までは好きだって言ってたくせに?そんな短時間で変わってしまうくらいなら、やっぱり最初から言わないで欲しいし、言ってしまったならそれは嘘だよ。嘘つきだって認めてほしい。認めたところで何も変わらない現実に虚しくなるだけだろうけど。今思ったのは、私はなんでこんなにも嘘に厳しいんだろう。いつも嘘に怯えてるのね。誰かに嘘をつかれたことがあったかな。私の脳みそは優秀で、嫌な記憶を本当にそこだけすっぽりと忘れてしまう才能があるのだけど、きっと出来事は忘れて痛みだけ覚えてるんだろうな。だからここまで嘘に警戒してるし、裏切られるだろうって思いながら生きてる。可哀想な私・・・。なんて、めちゃくちゃ悲劇のヒロインみたいな風貌だけど、結局エピソード自体忘れてるし、

 

この記事を書き始めてから40日くらい経ってて、もう何がなんだか。だめですね、書き始めたら2日以内に完成させないと。とりあえずここまで投稿しときます。未完成には未完成の良さがある、のかも?