時限爆弾。

意味をもつ言葉が苦手になってきました

画竜点睛

 

 

最後に書いた記事が、2年前で笑ってしまった。いつも新しく書こうとしても、自分の過去の記事を読んで満足してしまう。いつからだろう、アウトプットをさぼるようになってしまったのは。ここ、もしくは、一個前のブログに来るといつも思う、自分の熱量に笑っちゃうんだ。元気だね、きみとコメントしてみたくなる。感情があふれていていいな。たくさん考えて、たくさん文字にして、たくさん苦しんでいていい。今の私にはとてもじゃないけどできないな。過去の自分がかわいらしくて、誇らしいのは良いことだね。特に、推しについて書いてある記事は、今の私では思いつかないような言葉ばかりでいいな。自分について、たくさん悩んでいるのもいい。アイデンティティの模索段階ってやつなのかな、わかりやすくていいね。

 

今、約4万字にわたる私の思考をできるだけ理論的にまとめたものを完成させた後だから、なんていうんだろう。バーンアウトってやつ。わりと満足できるものができて、嬉しいんだよね。納得してるし、結構出来はいいんじゃないかと思ってる。研究なんて、ただのマスターベーションなんでね。自分がよければ、すべてオッケーです。協力してくれた方、本当にありがとう。約4ヵ月、みなさんのことだけ考えていました。発言内容を記憶してしまうくらい。おかげで、良いものが浮かんできました。

 

画竜点睛ということで、このブログを竜の目としようかなと思っております。研究の内容をここで詳しく書けないけれど、結局私が書いたのは高校生くらいからずっと考えていたことだったよ。その総まとめみたいなことを書かせてもらった。まとめと言えるかは微妙だな。もっと考えていることはあったけど、データから読み取れることの限界があったから、ぎりぎりって感じだ。ここでは、データもソースも理論的な証拠なんて何一つ必要ないから、妄想の範囲の考えを書かせてもらおうかな。

 

結論から言おうとしたけど、面白くないからやめよう。

まずは率直に、やっぱり人は、ひとりで生きていけないんだなって思った。現実に存在してようと、非現実に存在してようと、ひとは誰かがいないと生きていけない。もっとかわいく言えば、すきなひとがいないと生きていけないんだ。何かを好きになる、という気持ちの尊さに気付かされた。好きになる力で、人は生きているんだね。大事にしていきたいなって思う。これは、自分の感想になるけど。誰かを好きでいられることで、私は生きているように思う。誰でもいいんだけど、ひとが好きだから生きてる。

自分の過去のブログもそうだけど、誰かを好きでいることに突き動かされるエネルギーの強さには脱帽する。残念だけど、若い頃の方が強いかな。なんて、たかが数年だけど、正直もうあそこまでの熱量は抱けない気がするよ。だからみんな妥協するんだね。でも妥協って悪いことじゃない。生きることを急かされるくらい、何かを、誰かを、愛した経験って、たぶん一生影響する。その余熱だけで、生きていていいかもって思える。幸せな経験をしたと思っている。余熱の先にあるのが妥協で、その妥協は悪いことじゃないと思える。年を重ねるごとに、生きることが穏やかになっていく気がしている。なんか物足りないなって思う日もあるけど、それくらいで良いのかもしれない。ときおり、猛烈にあの日の情熱が恋しくなって、もう抱けない現実に打ちひしがれるかもしれないけど、そんな日にさめざめと涙を流して、明日を迎えるくらいがちょうどいいのかもしれない。私も丸くなったものです。まあちょっと背伸びしてるかも。まだ、刺激がほしいかも。こんな欲張りな自分も悪くないです。

私は最近、自分はひとりだけを好きになることができないかもしれないって気付いた。まだわかんないけど、ちょっと人間が好きすぎる。すきなひとが多すぎる。全員を特別だと思ってる。でも、ひとりを選べないと、相手からは特別だと思ってもらえないから、そこだけ寂しいのかもしれないけど、それはそれでいいのかもしれないなって思ってる。この年になって、まだ子どもじみたことをして、キャッキャしてる自分がいて、恥ずかしさもちゃんとあって、でもなんか、そんな人生もいいかなって思ってる。私、約5年以上黒歴史と呼ばれるであろうものに時間と熱を費やしたけど、何一つ後悔してない。きっとこんな感じで、人生を積み重ねていくんだと思う。知らないけど。

 

まあ、いつもの癖で、すっかり何を書きたかったか忘れてしまったし、そう考えたら結論から書いた方がよかったに決まってるんだけど。なんでもいいかなあって思う。これは諦めにみえるのかな。私はいろいろ諦めてるけど、すべてがポジティブだと思うんだよな。自分がそう思い込みたいだけ?セルフモニタリングもここまできたら病的だね。

 

すきなひとって大事だよねって話だったね。結論はそれかもしれない。誰かを好きになって、その気持ちを抱えて生きてくって大事かも。相手は誰でもいいし、関係性なんてなんでもいい。好きだなって気持ちは、大事に生きたいと思う。生きる理由を好きなひとに置いてはいけないかもしれないけど、生きていくために、人生の隣にいてほしいなって思う。存在するだけでいい。結ばれる、結ばれないを抜きにして、好きだな、大事だなって思うひとが、健やかに生きていてほしいと思う。この祈りに近い感情は、なんだろうね。その人が健やかに生きて、なぜ私は幸せなんだろう。願掛けに近いのかな。蜘蛛の糸よりも、藁よりも、太い感じ。なんだろう、ハーネスみたいな。支えなんだよね、すきなひとの幸せって。私が、より幸せに生きるために必要なの。もはや、好きなひとは贅沢品だったりするのかな。自分に余裕がなきゃ、手に入らない。だとしたら、すきなひとがたくさんいる私は、裕福なのかもしれない。いいことだね、やっぱり。

 

きっとこれを読んでくれるきみたちも、すきなもの、ひとで溢れているんだろうな。良いことだね。人より考えること多くて、だから疲れちゃうけど、そのぶんたくさん人を愛して、ひとよりちょっと贅沢に生きようね。美味しいところもたくさんあるって、改めて、自分で気付いてあげようね。日々、大変な毎日を送っているだろうきみたちが、ほっと一息をついて、自分の幸せに気付いてもらえたらいいな。

 

そんだけです。また書きにきます。

 

 

725328000秒

 

本日生まれました。ありがとうございますありがとうございます。

私は厚かましく、図々しい人間なので、平気で祝いの言葉をカツアゲします。

私が生まれた日ですよ!?全員が幸せなはず。

 

もう23年も生きてしまいましたか。恐ろしい。

何も成し遂げてないけど、毎日が驚くほど幸せな日々でした。

嬉しいことがあったり、悲しいことがあったり、苦しんだり、死ぬほど笑ったり、泣いたりしました。

感情に溢れていて、それを表現できることが、どれだけ幸せか。

 

人は、たまに見失います。ひとりで生きていけるような気になる。

私は映画もカラオケもご飯も旅行もひとりで行けます。

映画に関しては、もうひとりを望んでいるくらい。

でもそれは、家に帰れば必ず人がいるから。

Twitterを開けば、感想を呟いて、見てくれる人がいるから。

だから、私はみんなに生かされているんですね。

私は本当に純粋に、素直にこう思う。

こう思えることが、そもそも幸せそのもので。

人を恨まなくていい人生って、本当に素敵なもんですね。

運がいい、あまりに運がいいから、良い人にしか巡り合わない。

 

やなこともたくさんあるし、嫌いな人に出会ったこともあるけど、

それを上回るほどに恵まれている。

嫌いな人に100人出会っても、好きな人に1人出会えれば儲けのこの人生。

私は嫌いな人に100人出会う前に、好きな人に300人出会えました。

この人生を、幸せと言わずになんと呼べばいいんでしょうか。

 

私は時々どうしてもこの人生を終わらせたくなるし、

他人の人生が羨ましくなるし、ありもしない来世に期待する。

きっとこの癖はずっと治らないし、考え続けることだと思う。

 

それでも、時折こういう機会に自分の人生を振り返れば、

やっぱり幸せな人生だったと言えるような気がする。

これから先も、幸せな過去は変わらないし、運がいい私は未来も良いはず。

 

一個前の記事とのギャップが激しすぎて笑っちゃうんだけど。

まあでもその時感じていた気持ちに嘘はないし、今のこの気持ちに嘘もない。

一貫性がなくて、波が激しいのが私なのです。

 

最近勉強をしていて、私は完全にとある症状に当てはまるじゃないかと思ったんですけど、

まあだからなんだろうって思いました。

どうせ認めようが、何しようが変わらないんだから、

こんな自分を抱えて、これからもみんなに助けてもらって生きていこうと思います。

 

なぜか私に夢を見て、私をずっと忘れないでいてくれて、好きでいてくれるあなたたちへ。

どんなに関わりが薄くなろうと、あなたたちが存在するという事実が、私を立たせています。

どんな私でも受け入れてくれる人がいる、っていう事実が、どれだけ強いか。

私もあなたたちにとってそんな存在でありますように。

 

どうぞこれからもよろしく。

 

 

どれくらい大切か、またどれくらい役に立つかという程度。

 

 

自分の価値は誰が決めると思いますか。私は、他者だと思っています。私が今こうやって生きているのは、きっとまだ世界にとって私は価値があるから。だから生きてます。ただ、価値があるかどうかは他者が決めると思っているけど、価値を作り出すのは自分自身だと思っています。私は作り出しています。価値を、生きていて良いと思えるほどの価値を。まず、優しくします。全人類に、優しさを持って接します。口は悪いし、悪口を言うことだってあるけれど、関わる人間を不幸にしたりしないし、きっと少しは良い気分にさせてあげているはず。優しさは無責任でいい。楽なのに、手っ取り早く価値をもらえるからいい。さらに楽なのが、許容。許すことです。優しさは楽だけどプラスアルファで、能動的なものだけれど、許容は動かなくていい。ただそこにいて、腕を広げていればいい。笑っていればいい。なんて簡単なことだろうと思う。でもこれは、優しさより喜ばれる。優しさに価値があることをみんな知っているから、きっとわざとやっているのではないかと疑ってしまうけど、許容に関してはまだバレていないから。なぜか非常に評価される。受け入れるだけで、ありのままを肯定するだけで、価値をもらえる。簡単な世の中だと思う。怒らなきゃいい、褒めればいい、受け入れればいい。こんなに簡単なことで生きていていいというハンコをもらえる。ありがたいと思っている。

でも、たまにどうしても疲れる。負けず嫌いだから、抱えたものをおろしたりしないし、拒絶することはないけど、腕は痺れる。物理的に痺れる。感情が疲れる。笑っている頬がつる。真顔になりたい。両手を下ろしたい。軽くありたい。ああ、欲張れば抱えてほしい、私を受け入れてくれ、許容されたい、悪いことして許されたい、それでもいいって言ってほしい、笑ってくれ、でもそんなことを求めたら、私自身が抱えることをやめたら生きている価値を剥奪される、せっかくもらったのに、この価値を手放したくない、のうのうと生きていることに自信を持っていたい、余裕綽々でピースするためにはこの価値が必要なんだ、この価値があるかぎり私は困ることがないから、ああ、どうしよう。

生きているだけでいいんだよ、あなたはそこにいるだけでいい。愛しているよ、何をしても。大丈夫、大丈夫だよ。これは、言いたい言葉なのか聞きたい言葉なのか、もはや境界線はぐちゃぐちゃで、よくわかっていない。ありがとうという言葉に疲れた。そんなのもういいや。ありがとうなんていらない。助かるって言葉もいらない。助けたくない。助けてよ。なんでありがとうっていうくせに、返してくれないの。人は自分がやってほしくないことは人にはやらない、だから、やってほしいことを人にやるんだよ。本当にこれが生来のものだと思ってる?聖母なんて、存在しないんだよ。作り物だよ。生まれつき、こうだと思わないでよ。演技がうますぎるんだ、私は。それすら見破ってよ。なんて、とんだわがまま。自分で勝手に仮面をつけているくせに剥がしてくれよ、なんて仮面をつけてない人より厚かましい。厚顔無恥という言葉は、皮肉なのかもしれない。

愛があればさ。こんなのどうってことないんだ。でも、案外私は冷たい人間で、関係性なんて損得で、利害じゃんって、ちょっと思っちゃってる。だからこそ自分の価値を、”利用”価値だと思っているし、相手の価値だって”利用”価値なんだよ。いるだけで尊いのは、私を利用しない人だけ。だから推しって尊い。別に私が生きようが死のうが関係なく生きてくれてる。私の価値を利用しない。私に価値があろうがなかろうが、生きていてくれる。時折、お金を投げるけど、それは私の自由でしかない。こちらを無条件に、理不尽に、使ったりしない。癒される。価値がなくたっていいよ、って遠回しに言ってくれる。

きっと私だって、価値を利用している。でもきっと返してるよ。そこには自信があるよ。私は奪ってばっかにはしないはず。きっとね。返してなかったら教えてよ。でもそれって、あまりに貸し借り。お金みたい。見えないものを、いわゆる慈愛を、まるで物みたいに扱っている。生きづらそうね、あなた。生きづらいなあ。

なんの仮面もつけなかったら、なんと無様で、汚くて、愚かな人間が出てきてしまう。聖母の仮面を剥がしたら、普通の人間どころか、悪魔が出てきてしまうから。それを隠していたい気持ちは本当だよ。でも、嘘でもいいから、その悪魔を笑ってくれる人がいれば。気が小さくて、怒りっぽくて、わがままな悪魔を笑ってくれれば、それだけで良いんだけどな。それだけで、腕の痺れは取れるんだけどな。また、頑張れるんだけどな。仮面をつけて、持ち上げられるんだけどな。それすら許されないなんて、なんてひどい仕打ちだろう。やっぱりバレたのかな、人間を損得勘定でしか見れないようなクズだってことが。

 

 

 

ああ、疲れた。疲れたなあ。もう全部やめたいなあ。楽しそうで良いなあ、あの人は。日々、私の優しさに包まれて、他にも仲良い人がいて。楽しいだろうなあ、それはそれは。癒されるだろうなあ。私がこんなに辛くて、悲しくて、ダウンしてる時に、あなたは何をしてくれるんだろう。手を伸ばさないとダメかい。ダメなんだろうな。私はいつも、抱き上げてるけどね。あなたは、できないか。良いよ、できなくて。いいんだよ、それでもかわいいね、愛おしいね。大丈夫だよ。大丈夫。

 

 

なんて未来は丸わかりでさ。だからもう、迷惑なんてかける前に、関わるのを休憩するんだよね。悲しいけど、迷惑をかけないように、ひとりでいる。でも、そうしたら、私を利用できない人たちは、離れていくんだ。違う利用できる人を見つけて、どっか行く。なんて世知辛い。やばいね。全然私自身を受け入れてくれてない。当然か。なぜなら世の中は、利害関係だから。

 

 

ダメな人、何にもできないじゃん、悪い人、馬鹿、面白くない。そう言って、一緒にいてくれるなら、流石に、それ以上は望まないよ。私を、普通でしょうもない人間だと笑って、何もできない、何もしない私でも、そばにいてくれるなら、もうそれだけでいいや。それが欲しいな。

望みが絶えること。

 

それは、春でした。

顔馴染みは誰もいなくて、それは3年前に味わった感覚。

緊張と不安、それを上回るドキドキ感。

また、3年間が始まる。ここで3年を過ごす。

そう思いながら、名前の順番で数字のついた席についた。

 

母親から聞いていた。

中学の同級生の、友達が、同じ高校に来ると。

まあ、その同級生とはそこまで仲良くないし。

そんなのに期待するほど、友達に困らない。

ただ、その同級生は面白い子だった。そして、ひたすらに頭がよかった。

そんな子の友達なら、きっといい子だろうという予測はできた。

頭の片隅でしかなかった。

片隅でしかなかったのに、

その子は一週間後に私の脳内の8割を占めることになる。

 

第一印象は、変な奴だった。変わった子。やばい人。

ただ、ひたすらに面白かった。あまりに突飛で奇抜で、奇天烈だった。

ちなみに私も面白い。奇抜じゃないけど、面白かった。

例えるなら、その子はマセキだし、私は漫才協会だった。

初めましての時から、この子と一緒にいたら間違いないと確信した。

それから1年間毎日お昼ご飯を食べて、移動教室は必ず共にした。

仲間も増えた。5人で行動した。

高校生らしく、イメージカラーなんてつけたりして。

今となってはめちゃくちゃ大事な友達も、その子が引き合わせてくれた。

人数は変わっても、人は変わっても、私とその子だけは一緒にいた。

ああ、それこそ、2人でいれば最強だとすら思っていた。

一緒にいたくて、その子の学校に行く時間に合わせた。

誰もいない朝の学校、その子がピアノを弾いて、私が歌って。

このまま誰も来なきゃいい、とすら思っていた。

気付けば、他の友達とは異なる感情を抱いていた。

友情なんかじゃ足りないし、

親友というには疾しいし、

恋愛というより高尚な。

特別な気持ちを、いつのまにか抱いていた。その子に。

 

ただ、言わなかった。

好きの一言とも言ったことがない。

他の友達には散々言った。

手も繋いだし、ハグもした。

その子も、他の友達にはしてた。(もちろん妬いた)

その子とは、少しもしなかった。お互い、一切しなかった。

それでも、誰が見ても、私たち2人は学校の誰よりも仲が良かった。

 

 

嘘をついた。

仲が良かったかはわからない。

私は、私だけは、間違いなく、その子を世界一愛してた。

 

受験の時、病んだその子が言った。

「もうしにて〜な」って。

だから、「じゃあ一緒にしぬか」って返した。

その言葉にひとつの嘘もなかった。

その子がいなくなるなら、私もいなくなろうと本気で思った。

 

で、結局その後は、遺書を書いて、 それが書籍化して、

映画化したらどうしようって話で盛り上がった。

死んだ後に有名になるなんて、偉人じゃん!って笑った。

日が暮れたバスの中、暖房が暑くて顔を真っ赤にしながら、

大騒ぎしてた私たちは、間違いなく迷惑客で、

世界中で、一番人生を謳歌してた。

 

2年の時に、クラスが分かれた。3年も違った。

大学なんて、県すら変わった。

それでも初めて出会って、7年間、この想いを途切れさせたことはなかった。

高校の時、好きな男の子だっていた。

大学の時も、まあ、一応いた。

それでも、その子だけが特別だった。

その子の位置は、席は、誰も座れなかった。

ヶ月に1回、ラインがくればそれだけで良かった。

たまに会えたら幸せだった。

都会に行って、見た目が変わったあの子。付き合う友達の種類が変わったあの子。

それでも好きだった。

えなくても、他の友達と一緒にいる写真だけで妬けた。

 

 

も、もう、こんな感情は抱けない。

だって迷惑だから。片想いが冗談じゃなくなるから。

恋愛感情じゃないって言葉を、疑って、悲しむ人がいるかもしれないから。

れは、その子が世界で一番大切にしている人だから。

知らないけど。

知りたくないから。

 

嘘みたいに綺麗な海を見ながら黄昏れた沖縄も、

鹿みたいにはしゃいだディズニーも、

もう行けないのかな。

 

いや、いけるだろ。

私はただの友達なんだから。

 

友達。彼女にとって数十人いる中の、ひとり。

 

 

 

きっとしばらくは、その事実だけ抱えて眠る。

 

ひじょうに忙しい様。

 

 

こんばんは。お久しぶりです。私です。タイトル通り、忙しさに殺されていました。やることしかなくて、毎日毎日それをこなすだけの日常でした。嫌ですね、それだけに追われる毎日って。不自由だと思いました。でもあなたの選んだ道でしょう、って言われることに怯えて、不自由だなんて言えない。自分でお金を払ってないし。人にお金を払ってもらっておいて、不自由だなんて、恐ろしいこと言えないよね。まあ、ここで言ってるんだけど。普段よく、音に乗らない気持ちや思考はどこにいくんだろうって考えるんだ。文字にも、言葉にも、音にも乗らない思考は、どこへ流れていってしまうんだろう。みんなが考えるだけでどこかへ消えてしまった言葉を拾いにいきたいなあ。探しにいく仕事をしたい。生まれてこなかった想いに触れて、受け止めて、大事にしてあげたい。気になるなあ、みんなが何を考えているか。人の文章読むの好きなのは、ひとえにその人の思考が少しでもわかるからなんだよね。文章にしたいと思った気持ちと感情と経験と、そしてその裏に隠された無意識を推し測ることが楽しくて。文章に上手い下手はなくて、好き嫌いだけだよね、って話をしようとしたけど、これは文章だけじゃないことに最近気付いてさ。上手い下手っていうか、良し悪しって、物差しが世界にあるでしょう。他人から見た評価で決まるものが、良し悪しだと思うんだ。でも、好き嫌いの物差しは自分で。十人十色かもしれないけど、でもそれはひとりひとりにとっては揺るがないものだから。簡潔だし、わかりやすい。だから私は常に自分の好き嫌いで物事を判断したい。自分が良いと思っても、誰かから見たら悪い時、どうしていいかわからなくなる。でも、自分の好き嫌いは、誰にも邪魔させない。干渉させない。そうでしょう?だからさ、好き嫌いで生きていいんだと思う。まあ、これは暴論で。人を殺すことが好きだからやっていいわけじゃないし、限界があって。やだなあ、限界って言葉。ファンタジーを殺す言葉だよね、限界って。健康に育った子どもには最初万能感が備わっていて、小学5年生あたりの思春期で、それが不可能なことに気付くっていう過程を経るんだけど、これっていわゆる健康的な成長なんだよね。親も、誰も彼も、完璧じゃないって気付くのが、思春期の特徴でさ。サンタがいないって気付いた小学5年生の私は、ちゃんとこれを乗り越えたんだろうか。確かに今、万能感はないけど、きっと健康的に成長してきたけど、どこかでサンタを信じ続ける世界の方が幸せなんじゃないかとも思うよ。

自分の生き方に後悔はなくて、って、こんなことばかり言ってるな。後悔がないとか、しないとか、一番囚われているんじゃないの。どうなんだろう。考え始めるとキリがないから、抑えつけてるのかな。だとしたら、触れたら溢れそうで怖いから、見ないフリしてるの?そうかもね。そうだよ。これは健康的な防衛ですか?最近病的な話ばかり聞いていて、自分との重なりを否が応でも気づいちゃって、ちょっと嫌になって。これは誰もが通る道みたいなんだけど、苦しいね。元々自分のことについて永遠に考え続けてしまうタチなのに、そこに知識までついたら、もう頭がパンクしちゃうよ。今がそれです。珍しく疲れちゃった。一人で完結して、結局はファンタジーの中で楽しいことだけ、自分の都合の良いことだけ考えていたんだなあって思ってしまった。井の中の蛙、大海を知る。知ってしまったなあ。ああ、でも。このことわざに、誰かが付け加えた言葉が大好きで。「井の中の蛙、大海を知らず。されど、空の青さを知る者よ。」ポジティブだなあと思うし、なぜかこの文字列は、私の頭の中にものすごく忠実なイメージを湧かせるんだよね。君たちにはそういう言葉ってあるのかな。小学校の頃、とてもアクティブだった私は学校から帰った後も、休日も、学校に遊びに行ってて。疲れたときに、校庭のど真ん中に寝転んだりしてて。視界には、めいっぱいの空。青空。雲が流れていることを体感的に掴めて、あの時の感覚はきっと一生忘れないだろうなってその時も思ったし、10年以上経った今でも忘れられてない。結構過保護に育てられて、縛られて、欲望を押し込めて生きてきた、っていうか、今も生きている私にとって、線がなくて、自由で、大きくて、限界がない空を見るという行為は、救いのようでもあったな、って。今でも空とか海が大好きで、(夏は大嫌いだけど)、きっとそれは私と違って限界がないからなんだろうなって思うよ。羨ましいとか、自由なそれらを見て悲しくなるとか、そんな悲観的な思いよりも、世界は広いな、って、希望が溢れて、救われるようなそんな心持ちなんだよね。心底、ポジティブなんだと笑っちゃうし、笑ってくれていいよ。

今度、一緒に海を見に行こうか。空でもいいよ。きっとわかる、はず。いや、わかんないかも。海を見て、空を見上げて、大きくいっぱいに空気を吸ったら、まるで自分が解放されたかのような気持ちよさが巡るんだよね。それだけで生きていけそうな気がしたりするんだ。この話を書いてたら、頭の中に「翼をください」が流れてきた。この歌好きだったなあ、小学校の時。これ、このまま書き続けたらボツになりそうだから、とりあえず投稿だけしておくね。また書きにきたり、しなかったり。またね。

 

運がよいこと。

 

 

こんばんは。文章を改行しなさすぎて先生に怒られた私です。

行をしないのには理由があって、文章ってひと繋ぎで構成されてると思ってて、なるべき息継ぎしたくないんだよね。私利私欲の文章じゃいいけど、まあ確かに公的な文章では良くないかもしれなかったな。はい、反省。反省したから偉い。ヨシ。

 

閑話休題、タイトルについて触れましょう。これは本当に驚愕だったんだけど、幸せの意味って運がいいことらしい。びっくりした。人生で初めて「幸せ」って単語の意味を調べたけど、運がいいことなんだ。運が良ければ幸せって、なんともまあ皮肉な。じゃあ私は間違いなく幸せなんだよな。運がいい人生だから。運だけで生きてきたから。どうりで幸せだと思う時間が多い。面白いね。ご飯をたくさん食べれることも、たくさん寝れることも、ゲームを楽しくプレイできることも、そのどれもが運がいいことなんだと思うと感慨深い。運なんて本当に生まれつきなのに、それが備わってるか備わってないかで幸せが決められてしまうなんて。じゃあ私は死ぬまで幸せなんだ。だって運がいいから。なんて、自信満々に言ってるけど。運の良し悪しなんて、プラマイ0なんですよ。これは私が昔から盲信してる理論なんですけど。人間が一生を生きていく間に起こる出来事、幸せで楽しいプラスの出来事と辛く悲しいマイナスの出来事、このどれもは、どのタイミングでどれくらいの重さでどれくらいの頻度で起ころうが、結局死ぬときにはみんなプラマイゼロになると思ってて。だって不平等でしょ、不幸なだけの人がいたら。幸せなだけの人がいたら。きっと神様は平等だって信じてて、それは馬鹿みたいだけど、そう信じてないとやっていけないし。不平等だって思ったところで、何になるんだろうって思うし、そんなネガティブなことを考えてるうちに今起きてる小さなプラスを逃しちゃうかもしれないし。そうやって前を向いて歩いてきたし、これからも前を向いて歩いていこうと思ってる。んだけどなあ。

 

ああ、芥川の「歯車」って作品を知ってますか。遺作と言われている作品で、最後の一文にきっとあなたも震えるよ。で、その作中にね、主人公が「光のない暗だってある」っていうシーンがあって。よく光があるから暗闇があるって言うでしょ、影があるからこそ光がより一層輝くとも言われるし、この二つって常に対称で。でも光がない闇ってなんだろうって考えて、目を瞑って、何一つ光がない真っ黒の世界が見えた。黒色の画用紙を初めて見た時みたいな感覚。その主人公(まあきっと芥川)は、そんな世界にいたんだ、ずっと。相手に何回も言われるんです、光を、神を、信じてみたらって。でも、悪魔なら信じれるのだけど、って。悪魔を信じる気持ちと神を信じる気持ちって何が違うんだろうね。信じるの対義語は信じないだと思ってるんだけど、神以外のものを信じることが神を信じることの対義語なのかな。じゃあ人を信じることの対義語は?信じないことが対義語だと思ってたけど、芥川はなんて言うんだろうね。あなたはなんて言う?

 

好きな人がさ、見てる景色って無条件で綺麗でさ。今まで気にもしなかった景色が途端に輝いて見えて、ああこの景色を見れてよかった、って心から思うんだけど。それって隣に好きな人がいるから綺麗に見える、なんて言ったりもするけど、存外隣に好きな人がいなくてもしばらくは余韻で綺麗に見えてさ。一度綺麗だなって思ったものって、簡単に変わらなくて。いつまでも綺麗で困る、本当に。一人で見ても綺麗だから困る。でも、綺麗なのに、綺麗だねって言える相手がいなくて。綺麗に彩った人がいなくなった瞬間に、世界がモノクロになればいいのにって人生で何回願ったか。なんて、私はきっと言える権利もなくてさ。傷つきたくないから先に傷つけるってそれは防衛反応の一種だと思うんだけど、でもちょっと過剰防衛な気がして。だからせめて、傷つく前に逃げようとしちゃうのがきっと負け犬で。その負け犬が私で。傷つくのが怖いのなんてみんな同じだろうけど、傷を作ってまで頑張らないといけない時っていうのがあって、私はそれすらも逃げてきてしまったんだなって思うよ。で、軽い傷でたくさん慣らしておけばいいのに、それすらも億劫だった私は下手に歳を重ねちゃって、もう小さな傷ですら怖くて。馬鹿だなあって思うけど、過去は死んでも後悔しないって決めてるから、結局この現状を受け入れるしかいなくて。傷つかないって良いことなのに。傷だらけでも前へ進む人と、傷をつけずにその場に留まる人と、どっちが良いんだろうね。わからないね。でも私は、前に進みたいときに進めなかったし、進めてないよ。この現実が全てなんだろうね。

 

嘘と変化について、不意に考えちゃってさ。残酷にも人の気持ちは変わるんだけど、変わるってだけで済ませるのめちゃくちゃむかつく。妹とこれについてディベートしたんだけど、妹はさ、故意じゃないから嘘ではないって言うんだよ。その言った時は嘘じゃなくて、本当のことを言ったから、嘘じゃないって。ただ変わっただけだって。わかるけどさ。一点一点で言うこと全部事実で、嘘じゃないなら、それで許されるなら、言いたい放題じゃん。その時思ったこと言えばいいって、そんな勝手なこと許されるの悲しいじゃん。大好きな少女漫画、私はその少女漫画の主題を勝手に「人の心は移ろいゆく」だとしてるんだけどさ。ヒロインが好きな男の子には彼女がいて、ヒロインは一度失恋するんだけど、その男の子は結局ヒロインに惹かれて、彼女と別れて(まあフラれたという形ではあるんだけど)最後はヒロインとくっつくんだけどさ。これはもちろんハッピーエンドなんだけど。でも、私は同時にいつもひしひしと恐ろしさを感じるわけで。人の気持ち、完全にわからないってだけで怖いのに、操作できないし、さらには変わるって本当に怖い。確かに好きだった、とか、好きという気持ちに嘘はない、とか簡単に言うけど。そんなのは当たり前のことでさ、今この瞬間その人以外のことを好きになったその気持ちは、芽生えたこと自体は、嘘じゃないの?なんで?ちょっと前までは好きだって言ってたくせに?そんな短時間で変わってしまうくらいなら、やっぱり最初から言わないで欲しいし、言ってしまったならそれは嘘だよ。嘘つきだって認めてほしい。認めたところで何も変わらない現実に虚しくなるだけだろうけど。今思ったのは、私はなんでこんなにも嘘に厳しいんだろう。いつも嘘に怯えてるのね。誰かに嘘をつかれたことがあったかな。私の脳みそは優秀で、嫌な記憶を本当にそこだけすっぽりと忘れてしまう才能があるのだけど、きっと出来事は忘れて痛みだけ覚えてるんだろうな。だからここまで嘘に警戒してるし、裏切られるだろうって思いながら生きてる。可哀想な私・・・。なんて、めちゃくちゃ悲劇のヒロインみたいな風貌だけど、結局エピソード自体忘れてるし、

 

この記事を書き始めてから40日くらい経ってて、もう何がなんだか。だめですね、書き始めたら2日以内に完成させないと。とりあえずここまで投稿しときます。未完成には未完成の良さがある、のかも?

心がひかれること。 気に入ること。 また、そのさま。

 

 

初めて書く記事が、こんな記事になるのはどうかと思うけど。どうせいつかは消える名もなきブログ、もう何を書いてもいいんだけどさ。そういえばこんなブログを構えていたなと不意に思い出して。きっと誰かが読んでくれると信じて、筆を握りました。じゃあ今日は、私が誰かに恋をし続けている話でもしようか。

あなたが人間の感情の中で、一番興味深いと思ってる感情はなに?私は、恋愛感情だね。恋。愛。どちらかと言えば、恋?まあ、恋と愛の違いを話すだけで、きっと太陽は私の周りを3周くらいするんだろうけどさ。もっと簡単に言えば、好意だよね。「好き」っていう気持ち。これが一番気になる。なんで、人は誰かを好きになったり、嫌いになったり、恋をしたり、愛したりするんだろうね。でも嫌いになるってわかる、きっと嫌なことされたんだろうなって。動物に備わった防衛反応みたいなもので、自分がこれ以上不快にならないように、嫌いという感情を以ってして遠ざけるんでしょ。きっとこれはある意味で本能的な感情。じゃあ、好きってなんだろうね。さっきの本能を使って答えるなら、一緒にいて心地いいから積極的に関わっていくのか?生物的な本能で言うなら、子孫繁栄のため?それなら簡単だし、納得できる。子孫繁栄のためだと思ってる節はあった。どんなにロマンチックに、恭しく、美しく、まるで神秘的かのように飾り付けたって、結局それは人類の子孫を残していくための付随行為に過ぎなくて、最終目的を達成するための道理じゃんって。セックスが気持ちいいのは、子孫を残すためって聞いたことある。真偽は知らないけど、すごく納得だと思う。性欲って人間の三大欲求だし、あることに疑問を持っちゃいけない感情ではあるじゃん、そもそも。でも最近になって、なんか、ちょっと違うんじゃないかって思ってきた。詳しくないから薄目で読んで欲しいんだけど、最近はさ、性欲を持たない人間がいるらしい。性的行為に拒否反応がある人がいるらしい。もっと言えば、必ずしも男女じゃなくて良いらしくて。こうなってくると、私の今までの仮説が覆ってくる。本能じゃないじゃん。悲しいけど、今の人類だとさ、男女がいないと子孫は作れないから。(アダムとイブが同性だったら、もしくは無性別だったら話は変わったのかな?夢見すぎ?)だからきっと、子孫を残すことと恋愛感情ってイコールじゃないんだよ。人を好きになる気持ちって本能じゃないのかも。だって中には、誰にも恋をしない人もいるんでしょう。更に言えば、複数の人に恋をする人もいてさ。やっぱ気になるよね?恋愛感情。「好きって思ったらそれが恋っしょワラ」ってギャルの声が聞こえてくるけど、気になるものは気になるし、気になってしまったら考えずにはいられないし、考えてしまったなら文字に起こさずにはいられない変態がいるみたいなんだよね。

で、例に漏れず私は、これまでの人生常に誰かに恋をしてたんだよね。思い出せる限り、一日の狂いもなく、ずっと。思い返せば、小学生の時好きだったリョウくんは、きっと憧れの類で恋ではなかったかも、なんて思ったけど、その時の私が恋だと思ったからそれは恋なんだよ。バレンタインデーにチョコを作って、袋の中にラブレター入れて渡したあれは、恋だったんだなあ。恥ずかしいくらい純粋で、真っ直ぐで、そこになんの邪念もなくて、付き合うとかそんな概念も曖昧だった小学生の私が、手紙に下手くそな字で綴った「すき」にはどんな意味があったんだろうね。友達という関係だと物足りないって思ってしまうほどの「すき」ってなんだろう。私は常々思うんだけど、友達っていう関係にはよっぽどのことがない限り終わりはこない。いつか疎遠になってしまうことはあっても、きっと友達じゃなくなる日っていうのは、大喧嘩した日の夜以外は特定されないと思う。でも恋人関係の終わりは明確でしょう。なぜなら始まりが明確だから。始まりがあるものには必ず終わりが来るし、曖昧なままでいれないのが恋人関係だと思ってて。ただ好きで一緒にいたいだけなら、友達という関係がベストであるはずなのに。居心地がいいだけなら、友達がベストなのに。それでも高鳴る心臓もそのままに、誰にも見せないような熱っぽい視線で相手のことを見つめてしまうのはなぜだろうね。そんなことをしたら、その人と一緒にいれなくなっちゃうよ。ちなみに私はこの感情のせいでひとり友達を失ってるから。あの日あの時、勇気を出してしまった愚かな思春期の私へ。馬鹿なことをしたね、今でも後悔してるけど、良い経験だったとは思うんだ。高リスクなのにも関わらず、相手に思いを告げてしまうその愚かさに、恋心の全てが詰まっているような気もしてさ。恋をすると馬鹿になる、馬鹿になるように脳内分泌が作用している、って、まあこれも又聞きでしかないんだけど。らしいじゃん?きっとみんながみんな楽しい思い出ばかりじゃないのに、なんで悲しい思いをしてまでまた人を好きになろうって思うんだろうね。いや、好きになろうっていうか、なっちゃうんだよね。個性を十人十色、良いも悪いもひっくるめて、何十億という人間の中からたったひとりに(もしくは数名に?)恋心という名前のついた特別な感情を抱くのはどうしてだろうね。はたまた、恋心じゃなくていいっていうなら、きっとあなたはこれまで何人を好きになってきた?私は数えられないよ。誰にも渡したくないのに、どうか私の関係ないところで幸せに暮らしてほしいって同時に願うような。ここに居て欲しいけど、自由に生きて欲しいと願うような。そんな矛盾した感情に恋と名付ける?いや、これも微妙だな。恋なんて誰がつけたのかな。初めて恋をした人は。この感情をきっと病と思っただろうに。胸が苦しい、なんて嘘みたいな誇張表現だと思ってたけど、本当にそうじゃない?自分が関与できない思考を手に入れたいと願ってしまうのは愚かで恐ろしいことなのに、本気で願ってしまうよね。

ここまで散々語ってきたけど、きっとこれに答えはなくて。名前なんて結局仮名にすぎないんだよね。恋なんて適当に付けた名前のひとつで、これが例えば星とか、とうもろこしとか、違う名前の世界線でも人間は人に恋して、苦しんで、幸せになるんだよ。夢を見すぎてるかな。なんだろうね、不思議な魅力がある。所構わず、誰彼好きになる人のことを恋に恋してるなんていうけど、私は本当にそうかも。道理とか、根源がわからない感情にひどく惹かれてるんだよなあ。

もちろん今も、私は誰かに恋をしていて。私は見た目を知らなかったり、本名を知らなかったり、そもそも関わったことがなかったり、そんな相手にたやすく恋をする。恋に落ちるポイントは、ひどく限定的で、驚くほどに衝撃的。落雷とかじゃなくてさ。なんか、なんだろ、じわじわとさ、探索したくなるような、好奇心をずっとくすぐり続けられるっていうか、それ。私の場合はそれが恋です。なんだろう、この人はなんでこんなこと考えるんだろう、なんでこんなことしてるんだろう、って考え続けることが恋です。きっとこれは、十人十色あると思ってて。人が何をもってして恋っていうのか、それを聞いてまわって、死にたいかも。何かひとつ願いが叶うなら、全人類の恋の定義を知りたい。

また少し、自分の話に戻すけど。理解ができない人が死ぬほど好き。似ている人とさ、一緒にいると心地いいし、きっと人は少なからず自分と似ている人を好きになるんだろうけどさ。でもなんか、どうせ一緒にいるなら、私の人生では味わえないことをたくさん知りたい。一つの人生で、たくさんの人生を味わいたい。なぜなら欲張りなので。だから人の話を聞きたいし、それを使ってもう一度自分の人生で培った考えを改めたい。それが恋、恋だなあ。私はかつて異性にしか恋心ってものを抱いていないと自覚しているんだけど、でも気持ち的には人間なら誰でも対象で。ていうか、性別も何も私が恋するものが「思考」で、思考が備わってるっていうのが人間だから対象が人間ってことで、ねえ。じゃあそのうちAIにも恋すんの?とも思うけど、あいつらに感情はないじゃん。感情が付随して初めて思考でしょ、そう思わない?理解できない思考に、それを表出する感情、全てが完璧に揃って初めて対象になるわけだから。え、でもどうなんだろ、人間と同じように発達したAIにまだ出会ったことないから決めつけは良くないね。何事もチャレンジだし。いつも思うんだけど、私って好きのストライクゾーンは広いくせに、傍に置いておきたい人間はすごく厳選したいタイプで、取捨選択がひどい。好きな人にはきっと世界で一番優しくできる自信があるけど、好きじゃない人に対しては情すらないからさ、もうなんか、いーらねってなっちゃうんだ。後悔したことないし。まあ友達がいない現状はちょっと寂しいけど、好きな人さえいればいいしな。誰にでも優しくしてあげるからこそ、そばに置くのは好きな人がいい。わがままを許して。ていうか、欲を言うなら好きな人たくさん欲しくないですか?でも、好きな人が私を好きでいてくれるなら私だけ好いていてください。自信がないので。一夫多妻制度、めちゃくちゃわかるんですよね。だって好きな人、これからの人生で何人出てくると思う?ひとりに絞るとかもったいなくね?とか軽ノリなんだけど、でもそれじゃ不公平だから多夫多妻が妥当なんだろうけど、夜ご飯誘った時に「ごめ、今日は第三夫人とこいるわ」って返ってきたら多分病むよね、なーーにが第三だよ、第一の私を差し置いてる時点で第三じゃねーだろうが!って思っちゃいそうだし。えーでも待って、それはそれで楽しそう。好きな人のことを考えて苦しみたいでお馴染み私、その世界線世界線で楽しそう。だって好きな人が増えても別れる必要ないし、増えてくだけなんだから最高じゃない?それこそ始まりはあれど、終わりはないんだからさ。えー、最高じゃん。10本の指全部に指輪つけたくなーい?つけたいかも。

ごめん、また空想の世界の話に飛んで行きました。パラレルワールドに憧れを持ちすぎてる民なんだよね、許してね。パラレルワールドといえば、こういった話を喜んで一緒にしてくれる人がいまして。出会ったのは高校一年生の時、そこから今の今までずっと片想いしてるんですよね。間違いなくその人は私の好きな人ではあるんですけど、いわゆる付き合いたいとかはなくて。でも私のものになって欲しいと願ってます。いや、なってほしくなくて、私のものになったらいいなあって願い続けるものっていうかさ。わかる?神様なんだよね、ある意味で。私のものに絶対ならないけど、できれば私のことだけ見てて欲しいって願う感じの。そういう好きな人なんですけども。あとは、まあ本当にびっくりするくらいワンクールごとに変わるんですけど。これを読んでるあなたたちのことも...、いや、好きな人ではないな。あなたたちはそのカテゴリーじゃないや。てなるとやっぱり恋愛感情と友情って別なんじゃない?ってなるんですよ。不思議ですね。恋愛感情と友情、優先順位をつけるなら間違いなく恋愛感情の方が上なんですよね、私は。なんでかって、恋愛感情を抱いている相手はいつ私の気持ちが終わるかわからないし、その時その時の私の気持ちの揺れ動きを私が感じていたいから。でもあなたたちとはもう永遠でしょ。終わりがないんだから。死ぬほど大切に思ってるけどね。終わらないからこその信頼であってさ。よく恋人は世界でひとりしかいないからって言うけど、そもそもあなたたちだって世界でひとりしかいないわけで。だから大事だよ。大事だけど、まあ恋愛感情を抱いている私を見るのが好きなんだ。ごめんね、自己愛の塊で。いや自己愛じゃないんだよな、自分のことを解明したいだけで。解明したい相手がいるだけで。こんなこと、これを読んでるあなたたちには今更説明なんてしなくたってわかってくれてると思うけどさ。ただ気になるな、あなたたちが人に恋をした時、どんな感情を抱いて、相手に何を思って、世界が何色に変わるのか。教えてくれるかな?教えてくれないだろうな。なぜか私は秘密主義者と仲良くする癖があって、お互い常に誰にも触れさせないものを持ったまま生きてて、そこをお互い大事にできるからこそ、こんなにも心地よくて。ね、だからもしかしたら教えてくれないかもしれないし、それはそれであなたたちのことを尊重するから、どうか気分が乗ったら感情だけは教えてくれると嬉しいな。

 

ブログは良くないな。終わりが見えないから。きっとこのまま、私は一生書き続けるけど、このまま書いてたらこの文章が日の目を浴びることは無くなってしまいそうだからさ。そろそろ終わりにするよ。もし読んでくれてたならありがとう。つまらない文章でごめんね。また書くよ。おやすみ。